【社】民の依り代、心の寄る辺。それは神の住む所

近づきたくない、嫌な所。
ずっとここに居たい、温かい所。
ゆっくりと時が流れる、懐かしい所。
気の休まることのない、恐ろしい所。
その全ては幻想で、でも真実。

人が集まり、気持ちが集まる。「仲間=会社」だった。

「社」とは、神社の意味からも分かる通り、人民の心の依り代たるものであった。

「社」という字は、神様に供物をささげる「祭壇(示)」と、ご神体に見立てる土山、もしくはその土地自体をさす「土」から成り立っている。

そこには現代的な意味のビジネスライクな雰囲気は介在せず、もっと精神的で潜在的な、信頼感というか畏怖というか、そんな感情が宿っていたはずだ。

いつから「社」は変わってしまったのだろうか。
いつから「社」は敵視されるようになったのだろうか。

思えば、個人が尊重されるようになった昨今。
コミュニティよりも、パーソナリティの重要性が叫ばれる現代。
単身の行うことが持てはやされ、集団で行うことが衆愚のようにさげすまれる、今日。

そんな、勘違いにものた個人主義こそが、今の労働環境を負の連鎖に追い詰めているのではないか。

昔ながらの会社は「時代遅れ」だと断じられ、
人の力を尊んだ伝統はいつしか、違法なブラック企業だとののしられる。

しかし真実は違う。

我々被雇用者の、被害妄想的なまでの個人尊重主義こそが、ありもしない罪悪をねつ造し、次々と架空のブラック企業を創出していく。

それを止められるのは、我々社畜しかいない。
しかしその我々すらも、属人性を信仰化した、等しく矮小な被雇用者でしかない。

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