【休】神は言われた「休みあれ」。

休みって何ですか。
僕にとって休みは、只の一日なんです。
週末に家に行って、次の日には会社に帰る。
神が与え給うた幸いなる日は、僕にとっては只の一日なんです。

「休」とは、かばい、労ること。

「人+木」で、人が木のそばで休息しているさまを指す。原義としては「木の陰にかばわれている」ことにこそ、この字の意味が生きてくる。

「休」という字は、かばい、労ることが原義であった。
そこから派生して、現代の「やすむ」という意味を持つようになった。

現代に生きる我々社畜にとって、この字は「救い」であり「絶望」でもある。

我々社畜は、とにかく休みに恋い焦がれる。
休みとは永遠の終息であり、至上の幸福なのである。

「あと○日で休みだ」
「明日休みだから、今日頑張れる」

デス・マーチを群行するリビングデッドたちは、そう口に呟きながら毎日会社を向かう。
もちろん、休んだところで特に予定は無い。
「今日が休みだ」ということが、大切なのだ。

一方、休みを取ることは、負けたに等しいと感じる一面もある。

誰に負けるのか?

そんなのは、当事者の私達だって分からない。
会社の権力に屈服してしまった自分の弱さか、
体力の限界を認めてしまった自分の弱さか、
とにかく、えも言われぬ強迫観念と戦っていることは確かだ。

しかし、最近の「社畜もどき」たちは、休日の恩恵を軽んじている気がする。
何の呵責もなく休みを申請し、休み明けの出勤にも平然としている。
文字通り馬車馬のように駆けずり回っていた我々「真性・社畜パイセン」に対する心遣いなど、一切ありはしない。

いや、彼らにとって、休みは結局その程度のものなのだ。
あって当然、もらって当然。
当然と思っているから、休みをもらっても感謝も感動もない。

もはやこれまでの価値観の差が発生すると、「同じもの」とは呼べない気もする。
我々が大袈裟なのか、ゆとり社畜もどきがオカシイのか。
謎は深まるばかりだ。

今ここで、もう一度認識していただきたい事がある。
それは、休の原義。

休みとは「かばい、いたわる」ためのもの。
であるということ。

決して、「買い物に行きたいから」休むのではない。
決して、「仕事をしたくないから」休むのでもない。
決して、「ちょっとダルいから」という理由で、休むのではない。

本来「休み」とは、身体と精神が体力の限界を迎えるときにのみ、与えられるべきものである。

にも関わらず「休み」を享受している我々は、明らかに「かばわれている」のだ。
庇護下にあるのだ。

上司の。
会社の。
国の。
神の。

彼らの庇護のもと、御心のもと、
我々はぬかづき、休みを押し頂くのだ。

そう思うことが出来れば、いつもの休日は「第七日」の聖なる休日が如く、真に心の安らぐ一日と変わることだろう。

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